「真羊せんせのカウンセリング」

 平日の昼間から図書館に行った。僕は何か面白そうな本がないか見てまわっていると、急に声をかけられた。
「ちょっと、ちょっと」
 心臓が止まるかと思うほどドキッとした。みると、ちょっとちょっとと手をブンブンして目を輝かせている女性がいた。年は結構いってそうだが、なんだか目は輝き、イキイキしていて、若々しく綺麗にみえる。彼女はとなりの席の椅子を手でポンポンとたたき、「となりに座りなさい」と僕を促しているようだ。僕は気づかなかったことにして本棚に視線を戻す。そして何食わぬ顔でまた目ぼしい本を探しはじめた。

「ちょっと、ちょっと」
 無視されたのがわからないのか、彼女はまた同じ調子で声をかけてきた。僕は天をきょろきょろとみまわし、おかしいな?空耳かな?という風に首をかしげてみせて、また本棚に視線をもどした。すると彼女も無視されてるということが解ったのだろう、急に静かになった。と思ったら―

「君、ズボンのチャック開いてるよ」
 とポツンと呟くように言われた。僕の頭が急に沸騰した。僕はよくそういう失敗をしてしまうたちなのだ。今日、朝一でトイレで噴出したブツをちゃんと流したかさえ、いま問われれば自信をもって答えられるような、そんな立派な人間では決してないのだ。
 今すぐにチェックの開閉を手でまさぐって確かめたい!そんな衝動にかられるが、かといって、あわててチャックをまさぐり、開いているか開いてないか確かめようとする行為自体も恥ずかしいので、そんなことはできない。
 仕方なく僕はカニ歩きをしてその場から離れて、一人でこっそりチェックの開閉を確かめようとした。がその途中―

「嘘だよ。ごめんね。でもなんだ、やっぱりちゃんと聞こえてるんじゃないの」
 と彼女が言った。その言葉で僕はカニ歩きをする必要性を失ってしまった。急に固まるカニ男(オレ)。そのまま思考停止状態に入るカニ男(オレ)。
「いつまでそこにいるつもり?ちょっとここに座らない?」
 と言われ、僕は一言
「はい…」
 と言い、彼女の隣の席に大人しくちょこんと座った。

 「急に声をかけてしまってごめんなさいね」
 と謝られた。僕はあやまるんなら、最初からそんなことするんじゃない!って勢いで―
「いえ…僕のほうこそ無視してすいませんでした」
 と丁寧に謝った。
「いいのよ、いいのよそんなこと。さっきの事は一生憶えておくから」
「え?…」
 僕はそれって全然よくないじゃんと思いつつも、彼女に一生物の深い傷をつけてしまった、ものすごく存在感のあるビックな男(悪い意味で)になってしまったのかと戸惑ったが―
「ふふふ。冗談よ。そんなことよりこの雑誌みてちょうだい」
 と言われそんな思いは儚く消えた。彼女はみていた雑誌を指差して、「これこれ」と嬉しそうにしている。

 僕は彼女が指差した記事を覗きこんだ。いきなり「社会的ひきこもり増加傾向について!」という見出しが網膜に飛び込んできて、僕の心拍数は急激に増加した。けれども僕は冷静をなんとか保った。自分的にはなんともないって風に振舞ったつもりでいた。けれども彼女は「どうしたの?大丈夫?」と何故か僕を心配する。僕は全然大丈夫。僕は社会的ひきこもりなんかじゃないですから。現に今図書館にいるでしょう?ここは社会の一部でしょう?それに僕は社会と関わって収入だってありますもん。今日建設省という社会が作った道端で、100円拾いましたもん。昨日だって自動販売機から10円の収入だってありましたもん。それに友達だっています。牛くんとカエルくん。それからチャっキーって言うかわいい人形。みんな親以上に親しい関係です。だから僕は社会的ひきこもりなんて大きい見出しを見たって、全然平気!全然平気なんだ!とそんな思考が一瞬のうちに駆け巡ったが、僕は要約してこういった。
「ええ、大丈夫です…」
 
 けれども彼女はまだ心配して聞いてくる。
「本当に?顔色ちょっと悪いみたいだけど」
「いえ、大丈夫です」
「そう、ならいいんだけど」
「そ、それより、その、しゃ、社会的ひきこもりですか?その記事がどうかしたんですか?」
「あーそうそうこれね。この記事昔にわたしが書いたのよ。今日ここにきて偶然みつけて、読み返してみたら懐かしくて面白くって、そしたら誰かにこの面白さを伝えたい!って思ってしまって、偶然顔をあげたらあなたが見えたってわけ」
「は、はぁ、そうですか。それじゃ僕はこれで帰ります」
「え?やっぱり具合悪いの?」
「いえ大丈夫ですけど…」
「それなら、この記事を聞いてみてくれない?短いからすぐ終わるから」
「それじゃ、はい…」
 僕は今すぐにでも帰りたい気持ちだったけれども、僕の気持ちとは裏腹に彼女は楽しそうに朗読を始めてしまった。

「近年、社会的な関わりをさけ、一人部屋にひきこもる人達が増えています(私の白髪も近年上昇傾向にあります)。そんな私も若いころ、学校へも行かず、働きもせず、昼間から、近所の公園に出かけていっては「ごっつぁんですっ」とかわいく叫びつつ、大木にアタックしていた時期がありました。今、思えば私は何をやっていたのか?頭がパーになってしまったのかと思われてしまいそうですが、この行為にも何らかの意味、主張があったのではないか?と思うのです。
ひきこもった人たちはあらゆる競争から降りました。勉強の競争やスポーツの競争、見た目の競争やプチプチエアー早潰し競争、親指がどのくらい反るか競争や青汁競争、あらゆる競争から降りました。
 なんで彼らは彼女らは競争から降りたのでしょう?負けてしまったから?競争に疲れてしまったから?それも一つの真実でしょう。でも彼らはひきこもることでこう言ってるんじゃないでしょうか?見た目や、勉強やスポーツの出来、そんな人からの評価で、僕の、私の価値を決めるのはやめてほしい!僕は僕で、私は私なんだから。それが一番根本的にないのに、どうして競争ばかりさせるの?しっかりした土台がないのに、立派なものなんて積み上げられない!って。
 そんなことを思うと、私の「ごっつぁんですっ」大木アタックも意味を持ってくるように思うのです。女の人はプロの力士にはなれません。だからいくら頑張っても意味がないんです。それなのに毎日バカみたいに特訓をする。それは意味のないことををやる意味を私は示したかったのかもしれません。そんな私を、誰かに認めて欲しかったのかもしれません。それは私の無意識からの行動だったのではないでしょうか!」

 彼女の朗読が終わった。にわかにあたりが騒がしくなった。それはいつのまにか朗読というより演説のようになっていて、周りにいた人達も彼女の話に聞き入り笑い、感動して拍手を送ったからだった。僕もいつのまにか帰りたい気持ちはあとかたもなく消え、不覚にもちょっと感動までしてしまっていた。
 図書館の一画に暗く静かに流れていた時は、一点からパッと光が放たれ暖かく広がってゆくように塗りかえられていった。
 急にガラッと変わった雰囲気と騒がしさに、職員が何事かと勢いよくこちらに向かってくる。僕が彼女を見ると、彼女もそれに気づき「いけない」ってちょっと舌を出して苦笑した。

「ちょっと一緒にきてっ」
 彼女はそう言うやいなや、僕の手をとり走り出した。

 図書館の外にでて落ち着くと、彼女は謝った。
「ごめんね。一緒に連れてきちゃって」
「いえ、別に…」
 僕は素っ気無く答える。愛想を振りまくことは昔から苦手だ。
「助かったわ。だってみんなが私のほうをみて笑ったりしてるのに、急に私だけ逃げ出したら、まるで私が図書館を騒がせた犯人です!って言ってるようなものでしょ?まぁそうなんだけど」
 彼女は楽しそうにそう説明してくれた。僕も少しだけ可笑しくて笑いながら「そうですね」とだけ答えた。

「さてと、そろそろ帰らなくちゃ」
 彼女の車の前まで一緒に歩く。最後に彼女は「あっ」と気付いたように名刺をくれた。
「楽しかった、ありがとう」
 と彼女は笑い、車から手をブンブン振りながら帰っていった。僕は急に外の寒さを感じた。まだ二月だった。名刺を見る。そこには

ヒツジクリニック
精神科医 真羊 未穂
     MAHITUJI MIHO
 
 と書いてあった。「真羊せんせか…」僕はつぶやき、少し暗くなった雪道を一人歩いて帰った。